前回「"grayscale" pencil drawings 展」(2003年8月:静岡県浜松市 Gallery Coty)から 「やるやる」と言い続けること2年。もう少しで"ウソつき狼少年"になってしまうところでした。この夏、懲りずにまたやります!

※注:本展は既に終了しています。このページは開催時の告知ページです。
grayscale 2nd edition 藤田明鉛筆画展
お近くの方はぜひ。遠くのひとや忙しくて来れない皆さんも、気長に待っててください。出品作は会期終了後ちゃんと整理してこのサイトでもご紹介いたします。お楽しみに。

empty colours (AKIRA FUJITA):pencil drawings 藤田明鉛筆画展

「grayscale 2nd edition」について

grayscale?

「grayscale」(グレイスケール)というのはAdobe Photoshopとかをお使いのひとには説明不要でしょうが、CGの用語でモノクロ画像のカラー・モードのことです。赤(R)・緑(G)・青(B)みたいな色味がなくて、白から黒までのグレーの階調(グラデーション)のことを言うものです。大雑把に言うと。

紙の「白」は本当の真っ白じゃないし、ちょっとオフ気味の白の方が暖かみがあって僕は好き。そして鉛筆の「黒」も、版画の黒インクや白黒写真などと比べて本当の真っ黒ではないですよね。僕はその広くはないけれど豊かな色調が好き。グレーのような、シルバーのような、紙との相性や鉛筆の種類や使い方で、本当に色味が変わって感じられるような、そういう鉛筆のグレーを大事に描きたいのです。

「モノクローム」「モノトーン」という言葉は良く知られているけれども、何かちょっと、昔のことをふり返って懐かしんだり、「ばら色」という言葉に対してネガティブなイメージもありますよね。んー、それちょっと違うなと。

僕は、まだイメージの手垢のついていない言葉で、鉛筆のトクベツなグレーのことを、「いまとこれから」のニュアンスを込めてあらわしたかったんだな。

2nd etition?

「2nd edition」(第二版)という表記は辞書とかで良く見かけますね。もともとは出版の世界の用語かもしれないけど、最近はパソコンのソフトとかにも使われますね。

普通に「grayscale展」は今回で2回目だよ、という意味でもあるんだけど、えー、わざわざ「2nd edition」って言っているのは、前回までやってきたのと同じ路線をきっちり踏襲しながら、今回は今回のチャレンジをするんだぜっていうニュアンスを出したかったから。

自分がいままでやってきたことを捨てちゃって、ぜんぶ別のに根こそぎ植え替えるような感じのことをしなくてもいいじゃないかと。そうじゃなくて、同じ植物が少しずつ変化していくのを楽しみながら育てて行くようにやっていこうとね。ちょうど鉛筆画も、少しずつトーンを重ねながら描いて行くものじゃないか、って思うんだ。

自分の限界に挑戦し、常識や固定観念にとらわれずフレッシュな革新をして行く部分がなくちゃいけないと思う。同時にその一方で、歴史や伝統や他の作家さんの優れた作品に敬意を払い、ずっと変わらずに大切にして行く部分もあっていいと思う。その両方を意識しながら描いて行くんだ、とかね。思ったわけです。

だから「2nd edition」。今後も「3rd edition」「4th edition」ってなっていくかも。
要するに僕は、「革新系保守派」だとゆうことです。

ケルトから縄文へ/縄文からケルトへ

僕は西欧美術の中でも特異な位置を占めるケルトの装飾美術に大きな影響を受けました。でもそれは単に、ケルトの渦巻きや組紐などの装飾文様の美しさに引きつけられただけではなかったんです。

ケルトのひとたちは、眼に見えるものを正確にリアルに描くということよりも、眼には見えない心の中の世界や思想といったものを、不思議なカタチで象徴的に表現することに関心があったようです。これが現代美術の話ではなくてかなり昔の話で、しかもあの偉大な西欧美術の伝統と並行して、こともあろうにその西欧のど真ん中に存在していたことを知ったのは、僕には大変な驚きであり、興味深い共感を覚えることでした。

デッサンが下手くそな絵描きのくせに、普通の上手な絵画ではいまいち退屈だし、頭でっかちな今風の絵画もなんか窮屈な気がしてしまっていた僕は、気が付くとよく周りのひとから「デザイン的だねえ」「工芸的だねえ」といわれるスタイルの絵を描いていましたが、そういう感覚を持つ僕には、ケルトとの出会いは強力な後ろ盾を得たことに思えたのです。

ところで僕はケルト人ではないし、そういう環境で育ったわけでもありません。まあ、優れたモノなら誰が何から影響を受けたって良いんだろうけど、なんか変だなとも思っていたのです。僕は外国のある時代の美術には感応するのに、なぜ自分の住んでいる日本の美術の伝統にはあまり反応しないのかなと。

でもやっぱりあるんだよね。びびっ!と来るものが。この日本にも。それは僕の場合、あの一度見たら忘れられない異様な姿をした縄文土器を始めとした、中国大陸や朝鮮半島からの影響を受ける前の原日本の美術でした。石器時代から縄文・弥生・古墳時代の初期ぐらいまでの美術ですが、とにかくこれには何か特別なものがあるぞと。うん、絶対そうだと。

何人かの優れた研究者や美術家が指摘しているように、明らかに時代も場所も全然関連が無いはずなのに、ユーラシア大陸の端と端で、ケルトと縄文には何か共通するものが流れているようにも感じられます。単にカタチが似ているとか言うレベルじゃなくて。これはきっとどちらも人間の一番大事なものに関係があるところから出て来る美術だからなんじゃないかなあ、などと壮大な妄想を繰り広げたわけです。

とは言え、僕の絵は以前にもまして小さいです。専門家にもまだ良く分っていない原始日本の世界を、僕は僕なりに小さな窓からのぞき込むようにして描いてみています。いちど日本に還って、それからまたいずれケルトに戻ってみて..などと考えているわけです。

そういう行ったり来たりの過程の一部を見ていただこうかな、と思っています。

紙の無意識 そのほか

ある程度の粗さのある紙の表面を鉛筆で無作為に汚して、その汚れをじっと観ていると、それはやがて何かに見えてきます。そのイメージを他のひとにも見えるように、鉛筆で紙から彫りおこすようにして描く手法を「紙の無意識」と呼んでいます。紙の中にもともと埋まっているイメージを鉛筆で発掘するような感じでしょうか。

前回の個展ではじめて、実験的な小さな作品を3つほど出したのですが、この手法をこの2年間いじくりたおしてきました。手に入る限りの鉛筆を集めて、いろんな種類の紙との相性や技術的な実験を試みて来ました。

今回は化石とか巨石文明の遺物みたいな「石」っぽいものが出来ることが多いようなんだけど、それはたまたまです。あらかじめ「あれを描こう」「こういう風に描こう」と思って描いているわけではなく、自分の眼と、鉛筆と紙があたるときの指の感覚だけを信じて描くものなのです。文献を漁って研究しながら描くような「ケルト/縄文」ものの作品のとは根本的に描き方が違うわけです。

やっぱり僕の興味の対象や経験のなかで蓄積されていたカタチが、自然に投影されているようにも考えられますが、これは自分で実際にやってみる方が分るかもしれないと思うんだけど、それ以上のチカラが働いているようにも感じてしまいます。

まあ、そういうのも出品いたします。

このほか、多くの皆さまに可愛がっていただいた空想の植物のシリーズ「何らかの植物」の続編や、新たな技法にチャレンジした作品を出品する予定です。

鋭意制作中、お楽しみに。

で、最後に"開催要項"というやつ.. お気軽にお立ち寄り下さい。

grayscale 2nd edition 藤田明鉛筆画展

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